【 一編小説】口論

「従業員に対してそのような言い方はどうかと思いますよ?」

「その娘が使えないからでしょ?1カ月もすれば使い物になると思ったのにミスばっかりして全然ダメだ」

「それは妻が悪いと思います。ですが言い方というものがあるんじゃないですか?まだ入って間もないですし」

「普通は1カ月半くらいすれば一人前になるものよ?あの娘が使えないんじゃない!社長がヘッドハンティングしてきたって自慢してたから期待してたのにとんだ期待外れだわ!」

「だからそれは申し訳ないと言っているではないですか。ただだからといって店先で怒鳴りつけて「死ね」とか「クズ」とか言うのはどうかと思いますよ?怒るにしても言い方があるんじゃないですか?」

「いい?あの娘のミスで私が3年間で築き上げてきたお客さんとの絆を台無しにしちゃうの。重大さがわかっている?どれだけ努力してきたと思っているのよ!?」

「だからその度に妻を大声で怒鳴りつけるのはやめてもらいませんか?毎日大声で怒鳴られて家でも鬱っぽくなってきてしまって元気がないんですよ」

「そんなの知らないわよ!」

 


どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は1カ月前にこのパン屋を運営している社長に誘われて働くようになった。それまでは携帯電話の販売員を10年以上勤め、パート社員の割には売上がいいということで何度か表彰をされたこともある。パン屋の社長は常連さんでよく携帯電話の相談に乗っていた。そのうち親しくなり、欠員が出たということで誘われたのだ。売上をあげるプレッシャーとか若い子の指導にも疲れてきたところだったし、昔働いていた楽しかったパン屋の思いでもあったので二つ返事で了承した。夫も応援してくれたので販売員を辞めパン屋で働くことになったのだ。

前任者はパン屋の社長の娘さんで、どうも店長の佐藤さんと折りが合わなかったようで辞めてしまったようだ。そこに私がすっぽりとハマった形だ。社長の娘さんも突然辞めてしまったので引継ぎがない中、他のパートさんの調整とかパンの包装とか覚えなければならずとても苦労している。さらにパンを焼いているところが店を出たはなれになっており、そこと店を何度も往復してパンを運ばなければならず体力的にもきつい。あんなに減らなかった体重も1カ月ほどで3kgも痩せた。

佐藤さんは店のはなれで職人さん達とパンを焼いている。この店がオープンしてから3年。「私が売上を3倍にしたの」というのが口癖で他の従業員は自分の奴隷と思っているところがある。このお店は店舗で売るより予約のお客さんが多く、予約用と販売用の棚に分けている。予約用を誤って販売してしまわないための対策なのだが、予約棚がパンでいっぱいになってしまったので仕方なく販売用の棚に入れておいたのが佐藤さんの逆鱗に触れてしまった。一応紙を貼って予約用とわかるようにしておいたのだが間違えた棚に入っていることに気が付かれてからは怒鳴り散らし、ごみ箱も宙を飛び胸倉も掴まれた。こんなに毎日怒られて販売員時代の自信は粉々に砕け散ってしまった…。

 


なんとなく嫌な予感はしていた。こういう予感は大抵当たるし、今回も見事に当たってしまった。

妻は1年前から携帯電話の販売員を辞めたいと漏らしていた。でも子供の進学が控えておりお金がかかる時期なので躊躇していた。そんな時にパン屋の社長が「ヘッドハンティング」を申し出てきたのだ。

社長という人は(私の経験上だが)口からは結構いいことを言うが肝心なところで頼りにならない。今回も誘う時は結構いいことを言っていたくせに、実際に働いてみると話が違うではないか。8時~17時の勤怠のはずが7時半には出勤して作業を命じられ、帰宅も18時を過ぎることが多い。妻の仕事が18時に終わるということは保育園のお迎えに間に合わず延長料金がかかることになってしまう。しかも残業代は出ず10万8千円の固定給だ(これは扶養内で働くため)。計算をしてみると最低賃金を割っているではないか。これは明らかに違法だ。さらに祝日は休みと言っていたが普通に仕事にかりだされている。

それも妻が希望していたパン屋ということと、妻自身がそれでも働きたいと言っていたので黙認していたが最近は帰ってきても元気がなく仕事に行きたくないと言い出した。体調が悪くても「なんか負けた気がする」という理由で仕事を休まない妻がそんなことをいうとはよっぽどのことだ。一度泣きながら帰ってきたこともあった。

全ての元凶はこの「佐藤」という女のせいだ。いくら売上を上げたところで従業員を鬱に追い込むような上司ははっきりいって無能だ。そんなに言うなら一人で全部仕事をすればいいではないか。妻の話によるとヒステリーの病気なのではないかと店内では噂になっているようだ。腕には入れ墨が入っていて元ヤンキーらしいがちょっと売上を上げたからといって完全に調子に乗っているとしか思えなかった。

今日も仕事終わりの妻を迎えにいったところなかなか店から出てこないので様子を見に行ったところ佐藤から暴言を吐かれていた。ミスをしたのは妻が悪いがそれにしてもあんな言い方をするとは大人としてどうなのだろう?ついつい口を出してしまった。

 


全くどうしてみんなもっと頭を使えないのかしら。言わなくてもちょっと考えればわかるものじゃない。

このパン屋で働くようになって私の努力で売上は3倍になった。そのおかげでお店のことを全て任されるようになった。給料も私が封筒に入れて手渡してあげているの。感謝してもらいたいわ。

自分で考えられないなら私の言うことを聞いていればいいの。私の言ったことが出来ないなら怒鳴られても仕方がないじゃない。怒る時は怒らないと結局また繰り返すわ。

社長がヘッドハンティングしてきたって言ってきたからどんな娘が来るかと思ったらとんだ期待外れだったわ。パンが焼けたのに梱包用の袋にシールを貼っていなかったり、パンを保管する棚を間違えたり、この前なんか売り物のパンを落として具が潰れちゃったわ。ま、当然買い取ってもらったけど。1カ月は待ってあげたけどもう限界。

私は1カ月もすればなんでもできたわ。オープンしてすぐだったから全てが手探りだった。そんな中で私がルールを決めた。社長も最初は手伝ってくれていたけど「もう無理だ」って私に全部お店を任してくれるようになった。面白いように売上があがった。わざわざ遠くから買いに来てくれる人も増えた。全部私のおかげ。私の言う通りにしていれば間違いないんだからきちんということを聞きなさい。


※この物語はフィクションです。

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  • 1986年生まれのjavaプログラマー。28歳の時に7年働いた販売士からプログラマーに転職をする。常駐先を転々としながら日々生きています。