my bloody valentineの歴史
my bloody valentineは1984年にアイルランドの首都ダブリンで結成されました。1988年にCreation Recordsから『Isn’t Anything』を発表。1991年には代表作である『LOVELESS』を発表しました。このアルバムはシューゲイザーの金字塔とされている名盤です。その後2013年に22年ぶりのアルバム『mbv』を発表。突然の発表だったためファンを驚かせました。
音楽の特徴としてギターを重ねたノイズ混じりの轟音(ウォールサウンドと呼ばれる)に、囁くように歌うボーカルが幻想的な世界観を作り出しています。私も大好きなバンドでハンドルネーム「soon」もこのバンドの曲からとっています。
今回はmy bloody valentineについてその歴史を書きます。
ケヴィン・シールズの生い立ち〜バンド結成まで
バンドの中心人物であるケヴィン・シールズは1963年にアメリカで5人兄弟の長男として生まれました。両親は1950年にアイルランドからアメリカに移住していましたが1973年にアイルランドのダブリンに戻ります。ケヴィンが10歳の時でした。その頃はまだ好きな音楽が何か確立はしていませんでしたが、『トップ・オブ・ザ・ポップス』というイギリスの番組を見てグラムロックバンドやノイズ関連の音楽に触れたそうです。
11歳の頃、父親が小型のICレコーダーのようなものを家に持ち帰ってきました。ケヴィンはそれにラジカセを使って身の回りの音を同時録音していたそうです。初めて録音したのは掃除機のノイズ音だったそうです。
家にはピアノがあり、妹が弾いていたのでケヴィンも遊び半分で鳴らしていたました。子供の頃に親から小型のアコギをプレゼントされ、ギターを弾くようになりましたが弾いていくうちに弦が切れ、最終的には低音の2音だけで弾いていたそうです。やがてライブに通い始めるようになるとパンクロックと出会い「これならできそうだ」と思ったそうです。
ケヴィンが16歳のとき、後にマイブラのドラムになるコルム・オコーサクと出会います。空手の大会に出ていたケヴィンが(ケヴィンは空手をしていた)同じく大会に出場していたふたつ下の少年からバンドに誘われ(バスの中だったそう)、そのバンドにドラムとして加入したのがコルムでした。この時コルムは14歳でした。バンドをすることになったケヴィンはクリスマスに安物のギターを買ってもらい、チューニング法すら知らないうちにラモーンズのようなパワーコードを弾いていたそうです。コルムは「ビートを維持する」という概念すらなく好き勝手に叩いているだけでした。80年の頃です。
このスリーピースバンドは『ザ・コンプレックス』と名付けられたパンクバンドで、ラモーンズ、セックスピストルズなどのパンクナンバーをコピーしながら活動をしていました。ケヴィンはこの頃には曲を書き溜めていたようです。そこからメンバーは流動的になり、メンバーチェンジやバンド名を変えながら活動を続けていきました。やがて4トラックのMTRなどのレコーディング機材を揃え、自分たちのバンドや友達のレコーディングをするようになります。
流動的だったメンバーが落ち着き、ボーカルのデイブが彼女のティナを誘い83年後半〜84年頃に『my bloody valentine』となります。ベースがいなかったのでライブではキーボードがベースの役割をしていました。
ボーカル:デイヴ・コンウェイ
ギター:ケヴィン・シールズ
ドラム:コルム・オコーサク
キーボード:ティナ・ダーキン
バンド名の由来
my bloody valentineというバンド名はデイヴが名付けました。この名前の由来は『my bloody valentine』という1981年に作成されたカナダのホラー映画からでした(内容は13日の金曜日のようなもののようです)。
当時ケヴィンはこのことを知らずバンド名を了承したといいます。後にmy bloody valentineという映画が名前の由来と知り、この映画をみてみたようですが「最悪(笑)」だったそうです。この映画と関連づけられるのを嫌いバンド名を変えたかったほどでした。
この映画、ケヴィンは嫌っていたましたがホラー映画好きの間ではそこまで悪い評判ではないようで(賛否両論?)2009年に3Dリメイクもされています。結構グロいです。
あらすじ
アメリカ東部の小さな炭鉱町・ハニガー。この町で20年前の2月14日、バレンタインデーの夜に世にも恐ろしい事件が起きた。
町の人々がバレンタイン・パーティーを祝っている頃、2人の鉱夫が作業を切り上げてパーティーに向かったが、その際、鉱内のメタンガスの量を調査し忘れたため、鉱内で爆発事故が起き、数人の鉱夫が生き埋めになってしまった。
6週間にわたる救出作業の結果、ハリー・ウォーデンという鉱夫1人だけが救出されたが、彼は生き延びるために同僚の肉を食べており、完全に気が狂っていた。1年後、ハリーは精神病院から脱走し、バレンタインデーの夜、鉱山服に身を包み、爆発事故の原因を作った2人の鉱夫をつるはしで殺害、彼らの心臓をハート型のキャンデー箱に入れて、“二度とバレンタインデーを祝うな”という警告を残して姿を消した。この事件によって、ハニガーの町ではバレンタインデーを祝うことをやめてしまった。
それから20年の月日が流れ、事件を知らない若者たちの手でバレンタイン・パーティーが復活したが、それと同時に鉱山服に身を包んだ謎の人物が現れ、殺戮を開始する。果たして、それは戻ってきたハリー・ウォーデンなのであろうか…。
一方、バレンタイン・パーティーを楽しんでいたT.J.やサラなどの若者達は、成り行きから爆発事故が起きた炭鉱に肝試しに行く事になるが、そこに鉱山服に身を包んだ謎の人物が現れ、彼らを次々と血祭りに上げていく。
this is your bloody valentineリリースとティナの脱退
この頃バンドは活動拠点を西ドイツに移し、その後オランダへ移住しライブ活動をしていました。再び西ドイツへ戻ると1985年1月にミニアルバム『this is your bloody valentine』を発表します。
■this is your bloody valentine
1985年1月リリース
1.Forever and Again
2.Homelovin’ Guy
3.Don’t Cramp My Style
4.Tiger in My Tank
5.The Love Gang
6.Inferno
7.The Last Supper
このミニアルバムは地元レーベルのTycoonよりリリースされました。ボーカルのデイブの趣味が反映されたというアルバムはゴシックロック調で後の轟音シューゲイザーとは違う曲調となっています。
CDのクレジットをみると
「ALL SONGS WRITTEN AND ARRANGED BY KEVIN SHIELDS,DAVE CONWAY AND COLM CUSACK」
KEVIN:GUITAR,VOCALS
COLM:DRUMS
DAVE:VOCALS
TINA:KEYBOADS
BASS BY SHIELDS
となっています。このクレジットを信じるのであればベースはケヴィンが弾いてレコーディングしたのでしょう。
このアルバムをリリースした後に85年にティナが「キーボードの演奏技術に自信をなくした」ことを理由に脱退します。バンドは活動拠点をロンドンに移し、そのタイミングでベースのデビー・グッギが加入します。
デビー・グッギ加入とリリースラッシュ
デビー・グッギは14、15歳の頃、学校の課題がきっかけでベースを始めました。友達のジョーがドラムを選び、他の友達はギターを選んだためベースを選んだことがきっかけです。
ベースを探していたバンドはレニングラード・サンドウィッチというバンドのシンガーであるアニーにベーシストがいないか尋ねました。このアニーはデビーの元恋人で(デビーは同性愛者)そこでザ・ビキニ・マウンテンというバンドでベースを弾いていたデビーを紹介したのがきっかけでした。アニーはデビーの電話番号を渡し、コルムがデビーに電話をかけたそうです。リハーサルにくるよう頼まれたデビーは頼まれるたびにリハーサルへ行くようになります。この時正式に加入しているということは言わなかったようですが、このメンバーでレコーディングをしたため「メンバーにはカウントされているようだ」と思ったそうです。
ボーカル:デイヴ・コンウェイ
ギター:ケヴィン・シールズ
ドラム:コルム・オコーサク
ベース:デビー・グッギ
そして12月にはFever RecordsからEP『geek!』をリリースします。メンバーチェンジがあったにも関わらず前作から1年内のリリースでした。
■geek!
1985年12月リリース
1.No Place to Go
2.Moonlight
3.Love Machine
4.The Sandman Never Sleeps
続けて1986年にはKaleidoScope SoundからEP『the new record by bloody valentine』をリリース。
■the new record by bloody valentine
1986年9月リリース
1.Lovelee Sweet Darlene
2.By the Danger in Your Eyes
3.On Another Rainy Saturday
4.We’re So Beautiful
翌年の1987年にはLazy RecordsよりEP『Sunny Sundae Smile』をリリースします。
■Sunny Sundae Smile
1987年4月リリース
1.Sunny Sundae Smile
2.Sylvie’s Head
3.Paint a Rainbow
4.Kiss the Eclipse
デイブの脱退とビリンダの加入
Sunny Sundae Smileリリースしたタイミングでイギリスツアーを行いましたがそのツアーの最中に体調不良を理由にボーカルのデイブが脱退します。リードボーカルを失ったバンドはオーディションを実施。ここでビリンダ・ブッチャーが加入します。
この時点でビリンダは1児の母でした。まずビリンダの夫がコルムと出会い、バンドがバッキングボーカルを探していることを知ります。ビリンダはマイブラのことはよく知っていたそうでオーディションに参加します。
オーディションは5名くらいいたそうです。ビリンダ加入の理由は歌がダントツで上手かったこと、ケヴィンのコーラスと相性がよく他人の歌声を真似するのが上手いということでした。
実はこの時もう一人男性ボーカルが決まっていましたが練習熱心ではなかったためクビになりました。仕方なくケヴィンもボーカルをするようになり現在まで続くmy bloody valentineメンバーが揃いました。
左から
ボーカル/ギター:ケヴィン・シールズ
ボーカル/ギター:ビリンダ・ブッチャー
ベース:デビー・グッギ
ドラム:コルム・オコーサク
1987年には同じくLazy RecordsよりEP『strawberry wine』とミニアルバム『ecstasy』を発表します。
■strawberry wine
1987年11月リリース
1.Strawberry Wine
2.Never Say Goodbye
3.Can I Touch You
■ecstasy
1987年リリース
1.She Loves You No Less
2.The Things I Miss
3.I Don’t Need You
4.(You’re) Safe In Your Sleep (From This Girl)
5.Clair
6.You’ve Got Nothing
7.(Please) Lose Yourself In Me
この2作品についてケヴィンは「サウンド的に弱く静かな曲ばかりでライブで再現が難しかった」と言っています。『strawberry wine』は真剣に取り組んだようですが『ecstasy』はデモ録音のようにただ演奏した音を録音しただけで深く考えたりはしていなかったそうです。ちなみに上記2枚は『ecstasy&wine』としてまとめられ、89年にリリースされています(バンドには未許可でレーベルが勝手にリリースした)。
そして1988年、バンドはCreation Recordsと契約します。
Creation Records期
Creation Recordsはアラン・マッギーとそのバンド仲間だったディック・グリーン、そしてジョー・フォスターの3人で1983年に設立されたインディ・レーベルです。Oasisを始め、Primal Scream、The Jesus & Mary Chain、Slowdive、Teenage Fanclub、Rideなどそうそうたるバンドが在籍していましたが。財政難を理由に1992年にソニーと契約した後、1999年にアランたちが離脱を表明し消滅してしまいます。
1986年にリリースした『the new record by bloody valentine』はKaleidoScope Soundから発表されましたが、このレーベルを主催していたのがCreation Recordsの共同創設者のジョー・フォスターでした。この時にジョーはmy bloody valentineのメンバーとアランを会わせています。バンドに対するアランの印象は「汚いやつらだなぁ」だったそうであまりよくはありませんでした。
しかし1988年にアランのバンド『ビフ・バン・パウ』と一緒にライブをしたところ気に入られ、それがきっかけでCreation Recordsと契約します。その晩アランとディックはmy bloody valentineのステージを食い入るようにみていたそうです。
そしてついにCreation RecordsからEP『you made me realise』をリリースします。
■you made me realise
1988年8月リリース
1.You Made Me Realise
2.Slow
3.Thorn
4.Cigarette In Your Bed
5.Drive It All Over Me
リードトラックのYou Made Me Realiseはケヴィンが好きだったソニック・ユースの冗談めいたオマージュから始まった曲でした。そのためバンドとしてはCigarette In Your Bedのほうをリードトラックにしたかったそうですがアランが「You Made Me Realiseのほうが断然イイ!」と説得しこの曲がリードトラックとなりました。
制作と録音はロンドン東部のウォルサムストウにあるBark Studioで行われました。このスタジオはアランの友人でもあるプライマルスクリームのスタジオで、製作費はわずか1000ポンド(約16万円)でした。この印象的なジャケットはケヴィンたちが共同で住んでいた家の庭で友人女性を撮ったスナップショットをもとにデザインされたものです。
有名なグラインド奏法を使ったのもこのEPが初めてです。グラインド奏法とはギターのトーンのつまみを絞り、アームを持ちながらストロークする奏法です。これによりギターの音に揺れを作り出します。そこにリバースリバーブをかけるとマイブラサウンドが出来上がります。このグラインド奏法を生み出した時に『thorn』や『slow』を作り、以降ケヴィンの代名詞というサウンドになります。
このEPは英国インディ・チャートで最高2位を記録し、バンドの評価が高まっていきます。
You Made Me Realiseは現在ライブの最後に演奏されるお約束の曲で、その中で20分にも及ぶノイズパートがあります。このパートは『ノイズ・ピット』と呼ばれています。
続けて『Feed Me with Your Kiss』をリリースします。
■Feed Me with Your Kiss
1988年11月リリース
1.Feed Me With Your Kiss
2.I Believe
3.Emptiness Inside
4.I Need No Trust
Feed Me With Your Kissは続く『Isn’t Anything』にも収録されますが、先行シングル的な意味合いが強いEPです。元々1988年の夏頃はアルバムを作るつもりでスタジオ入りしていたようなのです。
Isn’t Anything
ついに1stフルアルバム『Isn’t Anything』をリリースします。
■Isn’t Anything
1988年11月21日リリース
01. Soft as Snow (But Warm Inside)
02. Lose My Breath
03. Cupid Come
04. (When You Wake) You’re Still in a Dream
05. No More Sorry
06. All I Need
07. Feed Me with Your Kiss
08. Sueisfine
09. Several Girls Galore
10. You Never Should
11. Nothing Much to Lose
12. I Can See It (But I Can’t Feel It)
このアルバムについてケヴィンは「自分たち自身をみつけたアルバム」「本当の意味での1stアルバム」と語っています。サウンド面での実験を重ねた結果、ようやく新たな在り方を発見しました。
録音は主にウェールズのFoel Studioで行われ、その後は小さな地下スタジオで録音されました。Foel Studioでは英国空軍本部からの戦闘機が定期的に飛んできたことや、周りでは牛が鳴いていたそうです。『All I Need』の録音時、ケヴィンのトレモロアームを使った演奏に隣の野原にいる牛が集まってきてしまったことがあったそうです。2〜30頭の牛に囲まれたところをエンジニアのデイヴ・アンダーソンが駆けつけてくれて助けてくれたそうです。
それまでのレコーディングは最長でも5日くらいしか時間がなく短期間で作成しなければいけませんでしたが今回は6週間時間をもらえました。そこでやったことが「レコーディング中に睡眠欠乏状態になるとどうなるか?」という実験だったそうです。そのため睡眠時間を極限まで減らしレコーディングに望んだそうです。ケヴィンはマリファナやエクスタシーを常用しながら催眠状態のまま連日深夜まで作業をしていました。しかしその実験も1カ月が経つ頃には消耗しきってしまいやめてしまいました。長期の録音ではこのやりかたは向かないということが実験結果だったそうです。
「ここで一緒に仕事をした人たちはみんないい人だった」とケヴィンが語っており、作業はスムーズに進みました。結果このアルバム制作期間は期間は2カ月、7000ポンドで制作されました。
当時ビリンダとケヴィンは恋人関係にあり、そこから生まれた曲も多く収録されました。本国イギリスではインディペンデントアルバムチャートで1位を獲得しますが全英アルバムチャート入りを果たすことはできませんでした。
この時期のライブがyoutubeにアップされています。
作品の評価が上々だったため、アランは『(When You Wake) You’re Still in a Dream』のシングルカットを要望したそうですが、バンドはすでに次回作に向けスタジオ入りしていたためこれを拒否しました。
1989年2月にはサウスワークのBlacking Studiosで次回作を具現化するための実験を繰り返されていました。スタジオは外部の人々をシャットアウトしており、Creation Recordsのスタッフも何が行われているかわからなかったそうです。
2ndアルバム『LOVELESS』が1991年9月にリリースされるのでバンドはここから約2年間スタジオにこもることになります。
loveressレコーディング
loveressのレコーディングは様々な逸話が残されています。レコーディングの費用が膨れ上がったためCreation Recordsが財政難に陥ったり、スタジオの使用料が払えず取り上げられたレコーディングテープを取り戻すためスタジオに忍び込んだケヴィンたちとそこに居合わせたレコーディングエンジニアが路上で取っ組み合いの喧嘩をしたりと『普通ではない状態』で進められました。
この件はバンド側(主にケヴィン)の言い分とCreation Records双方に言い分があります。中には意見が食い違っているところもあるため本当のところは曖昧なままです。
様々な話をまとめるとレコーディングにここまで時間がかかったのは主に以下の3つだと思います。
①メンバーの状況
②レコーディングエンジニアとの衝突
③スタジオ機材のクオリティ
1つずつ見ていきましょう。
①メンバーの状況
ケヴィンとビリンダが付き合っていたことは触れましたが、この頃は別れていたそうです。これから10年ほどケヴィンとビリンダは付き合ったり別れたりを繰り返します。
ビリンダは以前付き合っていた男の暴力と子供を取られるのではないかという不安からパニック障害を引き起こし、催眠療法をしていました。そんな中ビリンダはボーカルとしてこのアルバムに貢献しています。
コルムは体調を崩しておりドラムが叩けませんでした。当時ケヴィンとコルムはそれぞれ空き家を不法占拠して暮らしていました。コルムはガールフレンドと一緒に住んでいましたが家を追い出されてしまい、ホームレス状態でした。レコーディングが終わると空き家を探す日々だったそうです。さらにガールフレンドも不法滞在していましたがガールズバーで働いていたところを検挙され、アメリカに強制送還されてしまいました。このことでコルムは完全に打ちのめされてしまい自分自身を見失ったコルムは足も動かせない状態だったそうです。
そのためLOVELESSのドラムはほとんどがケヴィンが打ち込んだものです。最初はコルムは足が動かせなかったためバスドラを打ち込みその上にギターやベースを重ねようとしました。しかしギターを重ねようとしたところまったくグルーヴ感のない人間と機械を相手しているように感じになってしまい失敗に終わります。結局コルムが叩いた生のドラムを編集し直し、シーケンスの上に重ねるという気が遠くなるような作業が必要でした。この作業も当初やり方がわからずコンピュータの詳しい人と作業をしたといいます。
コルムは『touched』のプログラミングを行いアルバムに貢献しています。
デビーはこの頃、長年付き合っていた恋人と別れていました。このアルバムでレコーディングに参加できなかったのは彼女だけです。最初のうちは毎日スタジオに顔を出していましたが待つことしかやることがなかったそうです。しばらくしてからは自分はどうでもいい存在なんだと思うようになり次第にスタジオに顔を出さなくなります。
ケヴィンが頭の中で浮かべたベースラインをデビーに正確に伝えることはとても大変なプロセスだったようです。デビーも「彼が考えたベースラインを私が演奏してもほんのわずかにノリが違ったりする。彼が望んだ感覚を100%再現することはできない。だったら彼自身が弾いたほうがいいでしょ?私自身もそう望んだ」と言っています。
実際、ケヴィンとコルムは長い付き合いで、ケヴィンとビリンダは付き合っていたためデビーだけ疎外感があったのかもしれません。
②レコーディングエンジニアとの衝突
レコーディングにはエンジニアがつきますが、よくケヴィンと衝突していました。通常バンドのアルバムはボーカルを際立たせ、ギターやベース、ドラムの「位置」を聞きやすいように配置します。LOVELESSを聞くとわかりますが、ボーカルは囁くように歌われ、ギターもベースもドラムも一塊としてミックスされています。これはケヴィンが意図したものですが、そういったやり方が現場エンジニアと衝突しました。
コンセプトを理解できないエンジニアはケヴィンをゴミのように扱い、笑い物にしたと言います。ある日ドライなドラム音を録ろうとした時、エンジニアのひとりが「クソみたいな音だ。全然ドラムっぽく聞こえない」と言ったそうです。ケヴィンとしては「ドラムの音っぽく録りたくない」ため口論になってしまいました。次第にケヴィンもエンジニアに対し傲慢な態度を取るようになったそうです。
③スタジオ機材のクオリティ
Creation Recordsは当初数ヶ月でアルバムが完成すると見込んでいました。しかし2カ月経っても何もできておらず、度々料金未納でスタジオにテープを押収されていました。ロンドンにはスタジオは多くありましたが、ちゃんと機能するところはわずかでした。Creation Recordsは資金難だったため長く使ってもお金がかからないスタジオを利用していましたがそういったスタジオは設備がメンテされておらずボロボロでした。そのため機材トラブルが多発したためバンドはすぐ違うスタジオを探すことになります。その度に作業が止まってしまうためなかなか作業が進みませんでした。
そんな状況の中まずは1990年にEP『Glider』がリリースされます。
■Glider
1990年8月リリース
1.Soon
2.Glider
3.Don’t Ask Why
4.Off Your Face
翌年にはEP『tremoro』がリリースされます。
■tremoro
1991年2月リリース
1.To Here Knows When
2.Swallow
3.Honey Power
4.Moon Song
アラン・モウルダー
アラン・モウルダーが初めてマイブラと出会ったのは『Glider』のミキシングのときでした。The Jesus and Mary Chainの『Automatic』を手がけたアラン・モウルダーはケヴィンに依頼されスタジオに入りました。
ケヴィンはエンジニアとの衝突にうんざりしていました。機材の不調を指摘しても「そんなはずない」と無視され、勝手に音を変えられ、ケヴィンの言うことに真摯に耳を傾ける人はほとんどいませんでした。
アラン・モウルダーが最初にしたことはケヴィンとの信頼関係を築くことでした。仕事中にケヴィンが「何かおかしい」と言い出したら特に問題は感じなくてもスタジオに残り問題を解決するようにしていました。またケヴィンはコンプレッサーのかかり具合に敏感でした。マイクに向かって大声でシャウトしたさいに少しでも音の圧縮を感じたらコンプレッサーのかけすぎだと却下しました。そのため無断でコンプレッサーをかけるのは背徳行為とみなされていたそうです。ただ、ケヴィンの主張に本気で耳を傾けるとケヴィンの耳の良さや優れた判断力にすぐに気がついたそうです。
1990年の終わりには他のバンドを手掛けるために一時的に離脱します(その中にはRideの『Nowhere』などがあった)。数ヶ月後プロジェクトに戻ってきたアラン・モウルダーは時間が許す限り作業をしました。リードボーカルを録音する頃にはまた別プロジェクトのため離脱をしますがそれでも時々様子を見に来ていました。
スタジオを変えるごとに様々なエンジニアと仕事をしますが、イコライザーをかけることが許されたのはアラン・モウルダーだけでした。ほとんどのエンジニアはスタジオに入ることを許可されずロビーに座っているだけでした。もし何か問題が起きたとしてもケヴィン自身で解決できたそうです。アラン・モウルダーを除き、ケヴィンが何を求めているか理解している人はいなかったといいます。
lovelessには16人のエンジニアがクレジットされていますが。実際には45人近くのエンジニアと仕事をしたようです。この16人は「少しでもポジティブなアイディアを提供した」という理由でクレジットされました。
loveless
1991年、ついに『loveless』がリリースされます。
■loveless
1991年リリース
1.Only Shallow
2.Loomer
3.Touched
4.To Here Knows When
5.When You Sleep
6.I Only Said
7.Come in Alone
8.Sometimes
9.Blown a Wish
10.What You Want
11.Soon
このアルバムは全英アルバムチャートで最高24位になります。
最終的にスタジオは20〜30カ所使い、膨れ上がった製作費は25万ポンド(4000万円)とも言われています。
アルバムが完成するころケヴィンとアランの関係は修復不可能な状況になっていました。リリース直後の11月には初来日もし、92年の夏にはLAツアーしていますがレコード会社からのサポートはほとんどなかったそうです。
ツアー後、アランから決別の電話がありバンドはCreation Recordsを去ることになります。その後バンドに対しメジャーレーベル11社からオファーがあったといいます。
Island Recordsと自宅スタジオ
1992年10月Island Recordsと契約をします。契約金として50万ポンドを受け取ったバンドは1993年4月にストリータムにある自宅にスタジオを設立します。しかしこれが上手くいきませんでした。Island Recordsからは「自宅スタジオを建てるのは非常に危ない賭けだぞ」と警告を受けていました。当時はプロツールズなどなく、スタジオを持つとなるとプロ仕様の複雑なものが必必要だったからです。
新品のコンソールを購入したところ機能面で重大な欠陥が見つかりました。製造時のものだったため修理することもできず返品となります。1994年2月にようやく不良卓の返金を受け取り何もかもがちゃんと機能するようになったころにはバンドは勢いを失っていました。
このスタジオで実験や曲作りは続けられましたが1995年にデビーとコルムがバンドを脱退します。それでもケヴィンはビリンダと曲作りを続けますがいつまでも音源が完成しない状況にしびれを切らしたIsland Recordsは1997年3月に出資をストップします。このことでケヴィンはベットから起きられない状態になったといいます。バンドは完全に沈黙し活動休止状態となります。
再始動
バンドが活動停止した頃、プライマル・スクリームからケヴィンへ『If They Move, Kill Em』のリミックス依頼がきます。引き受けてみたら気に入ってもらえたようで「遊び感覚でギターを弾きにこないか?」と誘われます。ライブが終わると次のライブもと続いていき、ケヴィンはプライマル・スクリームのメンバーと行動をともにするようになります。
ライブサポートをしつつ『EXTRMNTR』を一緒に作ったり、次の『Evil Heat』を半分リミックスしていました。これが2003年ころまで続きます。
その後、2006年に『Isn’t Anything』『loveless』『e.p’s』のリマスターの話がきます。この話を引き受けたケヴィンはこのタイミングで1996年〜1997年に録音していた音源素材を聞いてみたそうです。ケヴィンの頭の中には新作のメロディが常にあったそうですが、それを上回るギターサウンドだったそうで、このことがきっかけでアルバム制作へのモチベーションが上がり作業に取り掛かり始めます。この時は2〜3カ月あれば大丈夫と思っていたそうです。
この頃コーチェラからライブのオファーがきます。この時のギャラが高額だったようで、これがあれば機材も買えてリハーサルもできます。偶然バンドメンバーが全員揃うタイミングがあったため(ホープ・サンドヴァル&ウォーム・インヴェンジョンズのアフターパーティ)そこで聞いてみたところ全員が「やろう」となり、再始動が決まります。
結局コーチェラのライブは出演しませんでしたが、ロンドンで再結成ライブを皮切りに2008年〜2009年で世界中でライブを行いました。ライブで資金を得たバンドは新作に取り組むことができるようになり、2010年に着手を始めます。
2009年には色々アンプを試していたようですが、なかなかしっくりこなかったようで2011年からは1996年当時に使用していたものと同じ古いアンプを使用したそうです。新しいアンプが上手くいかなかったのが次作のリリースが遅れた理由のようです。
ドラムの編集以外はアナログ録音にこだわりました。何もかもプロツールズにしてしまうと二次元的になってしまい音が立ち上がってこないこないことに気がつきアナログの重要性を再認識したそうです。
まずは2012年に『Isn’t Anything』『loveless』『e.p’s』のリマスターは無事発売されました。
mbv
2013年2月、突如として『mbv』はリリースされました。マイブラの作品としてはなんと22年ぶりとなります。2009年のライブ以降音沙汰がない状態で2012年にリマスター発売、そして『mbv』です。
突如ホームページで販売が開始された新作はすぐにサーバーがダウンしてしまいます。
■mbv
2013年2月リリース(CD,LP版は5月発売)
1.She Found Now
2.Only Tomorrow
3.Who Sees You
4.Is This and Yes
5.If I Am
6.New You
7.In Another Way
8.Nothing Is
9.Wonder 2
2月3日の深夜にバンドのホームページがリニューアルされたLP、CD、DL版という3通りのフォーマットが用意されました。サイトにはアクセスが殺到し、サーバーがダウンするアクシデントもありましたが、待望の新作にファンは歓喜しました。
このジャケットはニコラス・パンクハーストというアーティストの作品です。いくつか作成した中から選んだそうですが、基本となっているのは『家』で写真をもとにコラージュを作り上げました。
mbvリリース後〜現在
mbvのリリースライブ後、バンドは再度沈黙します。2018年に『2019年に新作が2枚組で発売される』という噂も流れましたがこの記事を書いている2021年時点では新作は発表されていません。
大きな動きとしては2021年3月に突如ドミノ・レコードとの契約を発表。『Isn’t Anything』『loveless』『e.p’s』『mbv』のサブスクが解禁され、5月には新装版として再発されました。そしてニューヨークタイムズのインタビューでアルバムを2枚作成中とのことです。2021年中にはレコーディングが終わる予定とビリンダは語っていますが…。
mbvが発売された時もリマスターの翌年に新作が出たので、2022年には何か大きなニュースがあるといいですね…。
参考
・クリエイション・レコーズ物語
・マイ・ブラッディ・バレンタインこそはすべて
・マイ・ブラッディ・バレンタイン LOVELESS
・ギターマガジン2021年6月号
・ロッキンオン2021年6〜8月号